隋書の「達於海岸」について

2020/08/15 神谷英一郎

おことわり:現存する隋書は日本列島を統治する国を「俀(タイ)」國と記載しているが、本稿では「倭」と表記します。

1.はじめに

隋書倭國伝には「明年上遣文林郎裴清使於倭國」以下、裴清の遣使についてかなりの量の情報を記載している。記紀と整合を取って隋書を解釈する定説によれば裴清(推古紀では裴世清)が訪れた倭王の都は飛鳥の小墾田宮になる。一方、九州王朝説では訪問先が九州王朝の王宮であり、したがって九州北部のどこかとなる。本稿では九州王朝説の立場から隋書の記事をいかに解釈できるかを考察する。

2.古田武彦の解釈

古田武彦は1973年に「失われた九州王朝 ―天皇家以前の古代史―」によって九州王朝説を世に問うた。外国が「倭」と呼んでいた国はその都が畿内ではなく九州北部にあり、倭の五王や筑紫君磐井の時代を超えて存続し続け、白村江の戦いに至る百済復興戦争を主導し、壊滅的な敗北後もしばらくは持ちこたえていた、とする。したがって白村江の戦いより60年以上も前の倭王・阿毎多利思北孤(アマタリシホコ)の都は九州北部のどこかとである。
この歴史像に基づいて、古田は隋書の記述を以下のように説明している。

倭国は九州の国である。―この命題は、『隋書』倭国伝中の「道行き」記事によっても明らかだ。「明年、上、文林郎裴清を遣し倭国に使せしむ。百済を度り、行きて竹島に至り、南にタン羅国を望み、都斯麻国を経、迥(はる)かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以て夷州と爲すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す」。
右の道順を図示しよう。
 百済 → 竹島 → (南望、タン羅国) → 都斯麻国 → 大海 → (東)一支国 → 「竹斯国」 → (東)秦王国 → 十余国 → 海岸
竹斯国(筑紫国)より東へ、 秦王国と十余国を経て「海岸」に達するという。だから、この「海岸」が九州の東岸(北部)であることは疑えない。そして「竹斯国より以東」といっているのは、右の「九州東岸(北部)」までのことだ。だから、ここでは結局、“九州内部”しか描かれていないのだ。すなわち、倭王の都は「竹斯国」に位置している。――それが右の道行き記事によって導かれる率直な結論である。
(「失われた九州王朝」 角川文庫 昭和54年; 308ページ)

古田は『この「海岸」が九州の東岸(北部)であることは疑えない』と簡単に結論しているが、根拠を提示していない。古田にとって「達於海岸」が「陸側から海岸に達する」ことは自明なのだ。一方、定説の解釈は「海路、瀬戸内海沿岸の十余国を経て、難波の 海岸に達した」というものであり、古田の自明を自明とは考えない。これが定説支持者が古田の説明に説得力を見出さない理由の第一である。

しかし船はどこかの「港」に着くことが目的そのものであり、到着地点を「海岸」と表現するのは例えば難破して本来の目的地ではない海岸に漂着した場合に使われる表現であろう。また港を海岸と表現したと仮定しても、それは船の目的そのものであるから「達於海岸」と書くことは無意味であり、駄文の烙印を押すことに等しい。したがって著者も古田と「達」の理解を共にしていることは疑えず、定説の解釈は成り立ちえないのだ。

理由の第二は上記の一節に続く文にある。

倭王、小德阿輩臺を遣し、數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ。

裴清の一行は「海岸」に到達し、それに引き続いて倭王が派遣した儀仗隊による盛大な歓迎式典が行われたと読める。しかし古田の説明では歓迎式典が倭王の都に近いとも思えない九州東岸で行われたことになり不自然な解釈になる、という疑義が呈されることになる。

3.「達」は何を意味するか

隋書の「達於海岸」は定説支持者が前提としている「裴清の一行が海岸に到達した」という意味ではなく、「東へ進むと再び海に至る」という地理情報である、というのが本稿の結論である。以下、その根拠を示す。

「四通八達」という表現がある。「道が四方八方に通じていること」の意味である。この熟語では「達」は「通」の同義として現れる。この使われ方を「達於海岸」にも適用すると、「(東する道は十余国を経て)海岸に『通』じています」という地理的な説明と解釈できる。裴清の一行が海岸に到達したと書かれているわけではなく、また歓迎式典がその場所で行われたわけでもないのだ。古田の説明は定説を前提にした読者には説得力が不足と映るだろうが、古田に倣って言うなら「四通八達の論証」によって古田の解釈は立証され、この記事を以て九州王朝説への反論とすることはできない。

しかし、こう解釈するとさらなる問題の解決を迫られる。直前の「 又東して秦王国に至る」は「また東へ進むと道は秦王国に至ります」という意味なのか、その前の「又東して一支国に至り、又竹斯国に至り」は「 (都斯麻から)海路また東に進むと一支国に至り、さらに竹斯国に至ります」という地理情報なのか。

この一節を書くにあたって著者・魏徴が魏志倭人伝の行程記事を念頭に置いていたであろうことは疑えない。すなわち

郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國を歴するに乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸狗邪韓國に到る。七千余里である。

で始まる一節である。この文に主語はなく、また主語を推定する情報も提示されていない。従って読者は主語は誰でもよい誰かであり、地理情報そのものが主題の文なのだと理解する。隋書の「道行き記事」も同様に主題は地理情報そのものなのだと理解することに何の支障もないのだ。もちろん、隋書の場合裴清の一行がこの地理をなぞって到来したことを否定するものではない。しかし記事全体がそのまま「道行き」であることを保証する文章ではなく、裴清の一行が「海岸」に到達したと考えるのはその読者の解釈に過ぎない。

迂遠であるが、漢文という外国語の文法についてさらに検討したい。古田も「道行き記事」と呼んでいるこの一節は「明年、上、文林郎裴清を遣し倭国に使せしむ」で始まり、「百済を度り、・・・」と続く。「百済を度り」とあるその『主語』が裴清であることの根拠は何であろうか。もし「文脈上明らか」ということであるなら、文脈は読者の解釈に過ぎず、別の解釈が可能であり合理的でもあることを上に示した。盛大な歓迎式典が倭王の都に近いとも思えない九州東岸で行われたという理解は必然ではない。

あるいはまた、裴清を主語と解釈する根拠を兼語文という文法に求める考えがある。「上遣文林郎裴清使於倭國(上、文林郎裴清を遣し倭国に使せしむ)」が典型的な兼語文であり、「遣」の目的語である裴清が「使」の主語を『兼』ねている構文である。そして文法によって「倭國に使す」の『主語』が裴清と決まるのと同様に文法によって「百済を度り」の主語が裴清と決まるなら、文脈からの解釈とは異なりその結論に議論の余地はない。しかしこの議論は「百済を度り」には当てはまらない。

兼語文とは前の文節の目的語と後の文節の主語が同じであるから省略するといった単純な構造ではない。前後の文節はもっと深く結びついており、「上は裴清を派遣した~その目的は~(裴清が)倭國に使する(ことにある)」という複雑な意味がそこに立ち現れるのだ。日本語にはこのような複雑な働きを1語で表現する単語はないので、「~して~せしむ」と2語を使って訓ずることになる。したがってもし「百済を度り」の主語の根拠を兼語文に求めるならこれも「(上、裴清を遣して)百済を度らしめ」と読まねばならない。当然ながら誰もそのような訓読をせず、単に「裴清が百済を通過して」と理解するのであり、したがって「百済を度り」の主語の根拠を兼語文に求める試みは失敗している。

裴清は「百済を度り、行きて竹島に至り、南にタン羅国を望み、都斯麻国を経、迥(はる)かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国に至る」という地理をなぞって旅行したに過ぎないのであり、この道行き文なるものは「裴清が、このように旅行した」という記述ではないのだ。その結果当然ながら「達於海岸」は裴清が海岸に到達したという文と解釈する必要もなく、その解釈がむしろ誤りであることは解釈の導く結論に無理があることから明白である。

4.隋書と推古紀の比較

漢文の解釈はそれとして、定説にはもう一つの確固たる根拠がある。日本側の史書である日本書紀の推古紀にも裴世清の来訪記事があり、両者が同一の外交事件について記載していると考えて何の問題もないとする主張である。この問題について関連する記事を比較してみよう。

推古紀の裴清関連記事(よみ下し)は以下のとおりだ。

608年 四月 小野臣妹子、大唐より至る。唐國、妹子臣を號して曰く蘇因高。卽ち大唐使人裴世淸、下客十二人、妹子臣に從いて筑紫に至る。難波吉士雄成を遣し大唐客裴世淸等を召す。唐客の爲に新館を難波高麗館之上に更(あらた)め造る。

六月 (15日)客等、難波津に泊る。是の日、飾船卅艘を以て客等を江口に迎え、新館に安置す。是に於いて中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を以て掌客と爲す。

八月 (3日)唐客入京す。是の日、飾騎七十五匹を遣して唐客を海石榴市の術に迎えしむ。額田部連比羅夫、以て禮辭を告ぐ。(12日)唐客を朝庭に召し使の旨を奏せしむ。

裴清は小野妹子と同じ船で来たと書かれている。一行は4月に筑紫に着いているが隋書ではこの部分を簡単に「至竹斯國」と記しており、これが地理情報にすぎないことは既に論じた。ここで大和の王朝は「難波吉士雄成を遣し大唐客裴世淸等を召す」という行動をとっているのだが、「召す」という言葉は「招く」の尊敬語であり「呼び寄せる」の意である。隋使の目的地が大和であることを前提にすると違和感を感じる表現であり、歴史から切り離してこの部分のみを読むなら「せっかく九州までお出でになたのだから、是非わが飛鳥にもお越しください」というニュアンスで受け取るのが一般的ではないだろうか。

一行が実際に難波の港にやってきたのはおよそ2か月後の六月15日である。この部分を定説は「又東して秦王国に至る。(略)又十余国を経て海岸に達す」に充てているが、裴清は煬帝から命じられた仕事があるにも拘わらず、途中で休養を取りながら筑紫への到着からおよそ2か月もかけて瀬戸内海を進んだことになる。疑念を持つ目で読むと不可解な旅程である。

難波津に着いた時の歓迎の様子は「是の日、飾船卅艘を以て客等を江口に迎え、新館に安置す」とある。これに対して隋書は「倭王、小德阿輩臺を遣し、數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし來りて迎えしむ」となっている。推古紀に「數百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らし」の記載はなく、隋書に「飾船卅艘を以て客等を江口に迎え」の記述はない。責任者の名前も「中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平」と「阿輩臺」の違いがある。

次に、「唐客入京す」は8月3日である。隋書の「後十日」に比べるとこれも随分と日が経っている。またこの時の歓迎式典の様子を推古紀は「飾騎七十五匹を遣して唐客を海石榴市の術に迎えしむ。額田部連比羅夫、以て禮辭を告ぐ」と書いている。これに対して隋書は「大禮哥多毗 を遣し、二百余騎を従え郊勞せしむ」である。馬の数も責任者の名前もまったく一致しない。

以上見るように、隋書と推古紀では裴清の来訪に関する記事を「同一の外交事件」と結論するのは、記載内容からは不可能である。これを同一事件とするような無理な解釈が許容されてきたのは、裴清の訪問先は大和以外にあり得ないという大前提に立ってのことであろう。

5.歓迎式典はどこで行われたか

倭王による盛大な歓迎式典は難波津でないとしたら何処で行われたのだろうか。この問いに隋書の分析を通じて確信をもって答えることは難しい。しかし常識的に考えると隋使の一行が最初の降り立った倭国の本土である竹斯国の港である蓋然性が高い。その先は、東方にあるが場所のはっきりしない秦王国、さらに東方の十余国、そして名もなき海岸しかないのだ。竹斯(筑紫)には後の時代に鴻臚館と呼ばれた迎賓館が営まれており、このような迎賓館は場所は異なっても磐井の時代にも卑弥呼の時代にもあったことは疑えない。

6.まとめ

古田武彦が「失われた九州王朝」において提示した隋書の「裴清の道行き記事」の解釈を新たな論拠を以て補強できたと考える。隋書倭国伝は外国が「倭國」と呼んだ国の王都が九州北部にあったことを明確に示しているのだ。

本稿は以下のリンクからPDFファイルとして開くことができます。

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